彼女が血統について伝えると、ケユクは、セルクナム語、そしてほぼ絶滅している南端の近隣民族の言語であるヤーガン語をゆくゆくはマスターし、自分の子どもに伝承したり、場合によっては部族の子孫のあいだに再び言語の種をまくと誓った。14歳のとき、彼は父親と一緒に、チリのアンタルティカ県にある「世界最南端の町」、プエルトウィリアムズを訪れ、ヤーガン語の最後のネイティヴスピーカー、クリスティーナ・カルデロンと会った。それ以来、彼女はケユクに電話で個人指導をするようになった。
何かの最後になるのは寂しいことかもしれないが、その栄誉には神話的なロマンがある。映画『ラストエンペラー』、小説『最後の正しき人』や『モヒカン族の最後』がその例だ。ケユクの神秘性は彼の早熟さによって高まった。チリのあるTV局は、国内の先住民を特集するシリーズ「Sons of the Earth(地球の息子たち)」の一環として、彼をティエラデルフエゴへ向かわせた。また、16歳にして『フィナンシャル・タイムズ』紙から取材を受けてもいる。彼を知る映画製作者の紹介で、わたしたちはサンティアゴのカフェで会うことになった。
イースター週の、穏やかな秋の朝だった。授業料をめぐる学生たちの一連の抗議デモが去ったあとで、街は静かだった。奨学金をもらってチリ大学で言語学を学んでいるケユクは、彼らの運動を支持していた(「『セルクナム』という単語は『わたしたちは平等だ』という意味になります。でも、『わたしたちは分離している』という意味にもなるのです」と彼は説明した)。ケユクは背が高く、しなやかな手足をもち、顔は童顔で、黒髪がふさふさとしている。ファッションには無頓着で細身のジーンズにレザージャケットだ。10代のころからセルクナム語で歌をつくっており、「エスノ・エレクトロニック」バンドでパフォーマンスをしている。しかし彼の振る舞いには重々しさがあった。自分がよく熱っぽくなる──少なくとも、本人はそう言っていた──のを意識してのことだろう。わたしはこんな質問をした。ほかに話す人がいないのなら、あなたが本当にセルクナム語を話しているとどうやって確かめられるのか。彼はわずかに笑みを見せて言った。「それはぼくが判断するしかないでしょうね」
ケユクの声はあどけなさの残るテノールだが、セルクナム語を話すとき、その声色は変わる。セルクナム語はスペイン語よりもざらざらとしてパーカッシヴなのだ。文法と語彙をマスターするために、彼はどのテキストよりもまず、1915年にサレジオ会宣教師のホセ・マリア・ボーヴォワールが発行した辞書を読み込んだ。音声は40年前に著名な人類学者のアン・チャップマンが録音したものが残されていた。
クロード・レヴィ=ストロースの弟子であるチャップマンは、メソアメリカおよび南アメリカの絶滅危惧言語に関する取り組みをした初期の活動家である。ケユクの個人教師のクリスティーナ・カルデロンはチャップマンの研究対象のひとりで、ケユクのプロジェクトについて聞いた彼女は、10年ほど前にサンティアゴでケユクを捜し出した。彼女は当時80代半ばで、2010年に亡くなった。